満濃池の概要
満濃池の龍
平安時代の中ころに書かれた「今昔物語」巻二十の第一に「竜王、天狗のために取られたる物語り」としても描かれた満濃池の龍伝説は、この地で古くから語り継がれてきた、海とも見える大池の神秘を物語るお話です。
灌漑用溜池としては県内1位の満濃池
藩政時代の讃岐の特産品は、砂糖・塩・綿で、讃岐三白と呼ばれていましたが、何れも年間気温が高くて雨の少ない瀬戸内特有の気候の賜物でした。この気候に加えて、香川県は山が浅いために河川によって灌漑用水を得ることが困難で、昔から溜池を築いてこれを補ってきました。従って溜池が多く、県内の現在の溜池総数は約1万6千で、全国の溜池総数約22万のうちの10%近くを占めています。灌漑用水の比率を見ると、県内の水田約2万9千町歩の内、溜池掛51%、河川掛37%、地下水によるもの12%と溜池に水源を求める水田が多いことが伺えます。また、溜池掛の水田面積の実に16%に相当する面積の溜池が存在しているため、県内の至る所で溜池を見ることができます。
県内の代表的な溜池を大きな順に、満濃太郎、神内次郎、三谷三郎と呼んでいます。
満濃池の貯水量は1,540万m3で、県内1位の溜池です。
満濃池の統計
受益面積 | 2市3町 3,000ha |
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市町村 | 丸亀市 | 善通寺市 | 多度津町 | 琴平町 | まんのう町 |
受益面積 | 743ha | 944ha | 416ha | 273ha | 624ha |
現況 | |||
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形 式 | 土堰堤拱型 | 貯水量 | 15,400,000m3 |
堤 高 | 32.0m | 満水面積 | 138.5ha |
堤 長 | 155.80m | 直接流域 | 1,280ha |
堤体積 | 218,000m3 | 間接流域 |
8,610ha 財田川 1,230ha 土器川 6,700ha 転 石 680ha |
標 高 |
堤 149.00m 満水位 146.00m 洪水位 147.00m
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法勾配 |
上流側 3.0割 下流側 2.5割 |
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取水塔及び樋管 |
[取水塔] |
高 30m 基礎直径 12m 塔下部直径 7.4m 塔丈部直径 6.4m 塔内径 5m 吸水管径 0.8m 吸水管数 8ケ
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[底樋管] | 延長 197m 勾配 1/100 断面巾 1.2m 高さ 1.5m 形式 隧道 放水量毎秒 5m3 |
地区内における集水面積の利用水量 | ||||
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区 分 | 面積 | 降雨量 | 流出歩合 | 利用水量 |
集水区域 | 3,000ha | 191.1mm | 30% | 1,719,900m3 |
満濃池への流域別集水量 | |||||
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区 分 | 面 積 | 降雨量 | 流出歩合 | 集水量 | |
満濃池直接流域 | 1,280ha | 664.6mm | 50% | 4,253,440m3 | |
財田川直接流域 | 1,230ha | 664.6mm | 50%・取入率35% | 1,430,551m3 | |
補給 水量 | 転石流域 | 6,700ha | 1,998,146m3 | ||
土器川流域 | 680ha | 7,717,863m3 | |||
計 | 9,890ha | 15,400,000m3 |
満濃池の歴史
およそ千三百年の歴史ある空海ゆかりの命の水
灌漑用の溜池として日本一を誇る満濃池は、「萬農池後碑文」によると大宝年間(701年~704年)に讃岐の国守道守朝臣(みちもりあそん)の創築と伝えられています。しかし弘仁9年(818年)に決壊、朝廷の築池使路真人浜継(ちくちしみちのまひとはまつぐ)が復旧に着手しましたが、技術的困難と人手不足によって改修がならず、国守清原夏野の発議により、弘仁12年(821年)空海が築池別当として派遣されました。空海が郷土入りをすると人々は続々と集まり人手不足は解消し、唐で学んだ土木学を生かして、わずか3ヵ月足らずで周囲2里25町(約8.25km)面積81町歩(約81ha)の大池を完成させました。朝廷は空海の功を賞して富寿神宝2万を与え、空海はこれによって神野寺を池の畔に創建しました。
戦後の混乱期を経てついに完成した満濃池
空海の築いた満濃池は、その後何度も決壊と修築を繰り返しましたが、元暦元年(1184年)の洪水の決壊後は、鎌倉、戦国の戦乱期もあり、放置されたままとなりました。
その後約450年を経た寛永2年(1625年)生駒讃岐守は、家臣であり土木工事の名人である西嶋八兵衛に修復を命じ、寛永8年(1631年)に完成し、33郡44ケ村の田を潤しました。
その後も、安政元年(1854年)の大地震で再び破堤し、高松藩執政松崎渋右衛門の支援のもと、榎井村の長谷川佐太郎らの尽力によって明治3年(1870年)に復旧工事が完成しました。
この後、明治38、9年に堤防を3尺(0.87m)かさ上げ、大正3年(1914年)には全ての樋をコンクリートや花こう岩に替え、煉瓦造りの配水塔も設けられました。しかし灌漑用水としての水不足は続き、昭和2年に5尺(1.51m)のかさ上げ工事を行い、昭和16年(1942年)から6メートルという大規模なかさ上げ工事にかかりました。その後、第二次世界大戦にと時代は混乱期を迎え、昭和19年には工事が中止、戦後21年から再開、昭和34年(1959年)についに完成し、貯水量1,540万トンという現在の満濃池の規模となったのです。
満濃池歴史年表
西 暦 | 年 号 | 摘 要 |
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701~704 | 大宝年間 | 讃岐の国守道守朝臣が創築。 |
818 | 弘仁9年 | 洪水により堤防が決壊。 |
821 | 弘仁12年 | 朝廷の築池使、路真人浜継が派遣され復旧に着手したが容易に成らず、改めて築池別当として空海(弘法大師)の派遣を要請し、この年の7月わずか2ヶ月余で再築。 |
851 | 仁寿1年 | この年の秋、洪水により堤防が決壊。 |
852~853 | 仁寿2~3年 | 讃岐国守弘宗王が復旧に着手(翌年3月竣工)人夫19,800人、稲束12万束、俵菰(たわらこも)68,000枚を使用した。 |
1184 | 元歴1年 | 5月1日、洪水により堤防が決壊。 この後、鎌倉、戦国時代の争乱期を含めた約450年間は復旧されないまま荒廃にまかせられ、池の中に人が住み、「池内村」となる。 |
1628~1631 | 寛永5~8年 | 讃岐領主の生駒高俊が家臣の西嶋八兵衛に命じ再築。水掛りは3郡44カ村35,814石に及び当時の讃岐総石高の役1/6を占めた。 |
1849~1853 | 嘉永2~6年 | 当時、樋管(ゆる)は木製であったため、寛永8年の再築後も底樋の伏替が6回、竪樋または櫓の仕替は12回に及んだが、この時底樋を木製から石造りとする。 |
1854 | 安政1年 | 7月9日、大地震により石造りの底樋がゆるみ堤防が決壊。幕末の混乱期で復旧が遅れたため榎井村の庄屋、長谷川喜平治は私産を投じて東奔西走したが志半ばで死去。 |
1869~1870 | 明治2~3年 | 高松藩の松崎渋右衛門、倉敷県の参時島田泰雄らの支援のもと、榎井村の長谷川佐太郎、金蔵寺の和泉虎太郎らの尽力により復旧。この時、堤防西隅の大岩に石穴をあけ、底樋とする。 (貯水量5,846千m3、役夫144,900人、工事費4,073円) |
1898 | 明治31年 | 竪樋、櫓の改修(工事費10,300円) |
1905~1906 | 明治38~39年 | 第1次嵩上工事(0.87m)及び余水吐改修。 (貯水量6,678千m3、工事費16,761円) |
1914 | 大正3年 | 配水塔新設(工事費18,900円) |
1927~1930 | 昭和2~5年 | 第2次嵩上工事(1.5m)及び財田川からの承水隧道新設工事(400m)等を県営事業で実施。 (貯水量7,800千m3、工事費428,700円) |
1940~1959 | 昭和15~34年 | 昭和14年の大干ばつを契機に第3時嵩上工事(6.0m)及び土器川より取水するための天川導水路工事(4,668m)を県営事業として実施し、貯水量は15,400千m3と倍増。 (工事費543,327千円) |
1953~1969 | 昭和28~44年 | 満濃池用水の有効利用のため、別途県営金倉川沿岸用水改良事業により、幹線水路の整備を行う。 (工事費639,122千円) |
満濃池の自然
水辺ならではの貴重な自然が息づく満濃池
田植えの頃、満濃池周辺の宵闇には、ほのかな光を発見することができます。「まんのうボタル」です。この蛍は普通のものより少し形が大きいのが特徴の源氏ボタルです。古来より満濃池はホタルの生息地として知られていましたが、30年ほど前から、すっかり姿を消してしまいました。そこで、その幻となったまんのうボタルを復活させるために、満濃池下流の「かりんの里」の近くに「ほたるの里」を開園し、金倉川のほとりに水車小屋とホタルの育つ水路を設けるなどをして、ホタルが自然に育つように工夫しました。
この川岸には、よみがえったまんのうボタルの姿をゆったりと楽しむことができるように「ほたる見公園」が整備されています。
こうして、まんのう町は「ほたるの里」として、かつての夏の風物詩、美しい光を取り戻すことができたのです。
ユル抜き
初夏の風物詩「満濃池のユル抜き」から満濃平野の田植えが始まる
たけなわの春が過ぎ、野山の緑が色を濃くした六月十三日、満濃池恒例の「ユル抜き」が行われる。
藍色の水をたたえた池の「ユル」が抜かれると、待っていたかのように出口を求めた水が一斉にほとばしり出る。
“満濃抜いたら牛馬離すな”
こんな言葉が満濃池の水掛かりの村々に言い伝えられている。「ユル抜き」が終わると始まる田植えのために、牛や馬はなくてはならない働き手だったのだろう。
かつて「ユル抜き」は、夏至の三日前に行われていたそうだが、昭和三十年ごろから始まった水稲の早期栽培で六月十五日に変わり、今は六月十三日が「ユル抜き」の日(※)とされている。
現在も「ユル抜き」には大勢の見物客が訪れ、堤の上は人々で埋め尽くされるが、昔は今以上の賑々しさであったようだ。
取水塔が設置される大正三年以前の「ユル抜き」は豪快なものだったという。赤や青の褌姿の若者が竪樋に五メートル程の檜の棒を差し込み、水利組合長の打ち振る御幣と“満濃のユル抜き どっとせーい”の音頭に合わせた威勢のよいかけ声とともに、差し込んだ棒をゆっくりと押さえて、少しずつ筆木を抜き上げてゆく。そんな様子を息を詰めて見つめる人々。「ユル抜き」はこの地方の初夏の風物詩であり、歳時記でもあった。
出典 満濃池史
※本文中では満濃池のユル抜きを六月十三日と掲載していますが、平成22年からは6月15日に変更になりました。尚、詳細については満濃池土地改良区(TEL:0877-75-3157)でご確認ください。
満濃池MAP
「いこかまんしょか満濃の普請百姓泣かせの池ふしん」(里謡)
日本一のため池として名高い満濃池は、現在の規模となるまでに、たびたびの決壊と修復を繰り返してきました。
その度に多くの農民の汗によって踏み固められ造られてきたのです。日照り続きの讃岐の地で水を求め続けた先人達の願いが込められたため池の偉大さを語る満濃池です。