 |
|



【国指定重要無形民俗文化財】(昭和51年文化庁指定)
|
 |
綾子踊の起こり(伝承) |
|
むかし、佐文七名といって七軒の豪族があったところ、綾という女がいた。
ある干天の年に、草木も枯死寸前となり、村人は非常に苦しんでいた。ある日、諸国遍歴の僧に綾が住民の苦しみを話したところ、僧は住民をあわれみ、龍王に願いをこめて雨乞踊りをすれば降雨疑いなしと教えた。そこで村人を集め旅僧自ら芸司となり、綾夫婦の鉦、太鼓にあわせて踊ったところ、俄に一天かき曇り、滝の如く雨が降った。
それより干天の年には毎年この踊りを行うことを例としてきた。
以来こうして綾が踊ってみると、恵みの降雨があったので、この踊りが雨乞踊りとなり、だれ言うことなく綾子の踊りとして現在に伝わっている。
なお、この時の僧は弘法大師だと伝えられている。
 |
公開のあらまし |

|
いま県下に伝わる雨乞踊りは佐文の綾子踊と滝宮の念仏踊の類型に分かれるようである。滝宮系の踊りの編成は全員が男子であり、男装で踊るのに対して、佐文系の踊りは小踊六人、大踊六人ともみな振袖姿の男子女装であでやかである。
これは踊りの縁起主である綾子(巫女)を美しく象徴したものであると考えられる。なぎなた持ちと棒持ちが中央に進み出て、口上を述べてなぎなたと棒を使い、次いで地唄が座につき芸司が口上の後歌い出し、踊りが始まる。
日月を書いた大団扇をひらかして踊り芸司を先頭に小踊、大踊、側踊の踊り子が並んで踊る。踊り場の周囲を棒で垣を作り、四方には佐文村雨乞踊と昇流と降龍の幟の旗をおし立てた中で、「水の踊」「四国船」「綾子踊」「小津々み」「花龍」「鳥龍」「たま坂」「六調子」「京絹」
「塩飽船」「忍びの踊」「かえり踊り」の十二段からなり、囃子は、太鼓、笛、鉦、鼓、法螺貝であって、古式豊かできらびやかさ、優雅さを備えた踊りの中の節ぶしに、村人の雨乞いの
悲願がこもり、天地の神がみにひと露の雨を降らせ給えと祈る心がにじみ出て、踊りは最高潮に達し、胸が打たれるのである。
|
 |
文化的な意義 |
日本の中部地方以西には「風流踊」と総称される雨乞踊や太鼓踊、小歌踊等が各地に伝承されており、「綾子踊」もこれら「風流踊」のひとつとされている。
例えば歌詞の上からみると「塩飽舟」は、天理大学付属図書館本「おどり」や鳥取県八頭郡西谷と鳥取市越路の「雨乞踊」、奈良県吉野に伝わる踊り等と同種のものである。
また男女の恋の場面が叙情的に表現されている「花籠」は、室町時代の都を中心とする小歌の名作集「閑吟集」にみられるものである。
これらの系列に連なる「綾子踊」は、近世初期の女歌舞伎踊の面影を色濃く伝えるもので、日本の芸能歌謡史を研究する上で貴重なものとされている。
|

|
 |
雨乞綾子踊口上(地歌) |
 |
|
水の踊り
一.堺の町は、広いようで狭い
雨さえ降れば 蓑よ 竿よ ヒヤ
雨が降ろうと ままいのソレ
しっぽとぬうれて ソレ
水か水か サア
こうちござれ こうちござれ
|
 |
|
綾子踊
一.恋をして 恋をして ヤア
わんわする 親の ヤア 知らずして
あんあの子は いんいつも ソレ
夏やせをする ウンウノヤ
あらんや 夏やせをする ウンウノヤ
あんあじきなや ヒヤ
ひうやに ひうやに ヤア
やらに やりうろ やりうろ
|
 |
|
六蝶子
一.五嶋しぐれて雨降らば 千代が涙と思召せ
千代が涙と思召せ ソレ リンリンリン
リンリンリンリンリンリンリ
|
 |
|
京絹
一.おれは京小袖 色もよや 色もよや
紋から 縫目もよや ソレ
キョヤ ジョヤ アラシャン
ソレ都恋しや 都の仕出立恋し
キョヤ ジョヤ アラシャン |
|
|
たま坂
一.たれは思えど 実にそなたこそ
芋の葉の露ふりしやりと ヒヤ
たま坂に来てねて うちおいて ソレ
元の夜明けの鐘が 早やなるとの 鐘が
アラシャン
|
 |
雨乞い信仰とため池 |
古来香川県は、干ばつは六年ごとに訪れると言われるほどで、「水は天から、神仏から授かるものである」という思想は讃岐の人々の揺るぎない信仰となっている。
空海は、弘仁八年(八一八)仲多度郡琴南町御門淵で祈雨を行った他、弘仁十二年には朝廷の築池使として、今も農業用ため池として日本最大を誇る満濃池を修築した。
また、仁和四年(八八八)に、讃岐守菅原道真は、「臣の一命を召し、讃岐二十万人の民を救い給え」と、七日間城山の神に祈雨をおこなった。
藩政時代にも度々、官民一体となった降雨祈願は行われ、「もらい水」、「もらい火」、「川瀬待ち」、「千束だき」等雨乞いの神事は数多く伝承されていて、水利をめぐっての「水げんか」の記録も多く、各地で竜神信仰が行われた。
県内に伝わる民俗芸能の殆どは「雨乞踊り」であり、『綾子踊』の他に有名なものとしては、『滝宮念仏踊り』があり、これらは厳粛な神事として行われて来た。
典型的な瀬戸内式気候である香川県は、全国一ため池の多い県であり、昭和二十七年調査では、一七,七八八ヶ所(総面積10アール以上)を数える。
しかし、「四国は一つ」の合言葉の下に立案された「吉野川総合開発計画」の一環として、「四国三郎吉野川」の水を讃岐山脈を貫通して香川県へ導水する「香川用水」が十二年の歳月をかけて昭和五十六年に完成した。農業、工業、上水道に総合的に給水する「香川用水」は、県内の水不足を解消したが、それとともに雨乞いの神事は衰退の一途を辿ることになった。
 |
佐文と加茂神社 |
仲南町の北西部、金比羅宮のある象頭山の南西山麓に所在する。古代には「麻績村」と呼ばれ、琴平山周辺には忌部氏が住みついて麻の栽培が盛んであったが、麻を紡ぐ「麻績」から「あ」が除かれて佐文となったもの。
米、麦、タバコ、きゅうり等が盛んに栽培される他、タケノコは特産として京阪神へ出荷されている。水不足の上に、小規模田がほとんどを占める土地であったが、香川用水事業、農業構造改善事業により、地域全体が水利問題を解決した効率的な農地になった。
人口は656人、戸数146戸で仲南町内では最大の自治会で、九つの小自治体から成る。
地域の中心部に加茂神社があり、「綾子踊」の公開はこの境内で行われる。神社の背後には、雨乞い祈願の行われた竜王山がそびえる。
|
  |
|